映画「ドライブ・マイ・カー」
昨年7月のカンヌ映画祭で脚本賞を受賞した際は少し気になっていたのですが、公開された8月下旬はいろいろと忙しく、他に観たい作品が続いたのでそのまま忘れていました。ところが年末から年明けにかけて海外の賞を立て続けに受賞し、アカデミー国際長編映画賞まで獲りそうな勢いなので、遅ればせながら観に行った次第です。
濱口竜介監督の作品は初めて観ましたが、独特の雰囲気がありますね。ロメールやブレッソンと比較して語られるのもよくわかります。個人的には、邦画によくある舞台劇のような台詞回しが苦手で、今ひとつ入り込めませんでしたが、観ている最中にぴんと来なくても、終映後に何かしら感じるものが残る作品だと思います。
映画の始まりは窓の向こうに広がる朝焼けを背景に女性が奇妙な話を語っているシーン。逆光で表情は見えませんが、シルエットから後朝のようなものだとわかります。まずこの美しい映像で一気に映画の世界に引き込みます。インパクトの強さは完璧です。
語っているのは映画脚本家の音(おと)で、ベッドに横たわって話を聞いているのがベテランの舞台俳優/演出家である主人公の家福悠介。彼らは二人暮らしの夫婦で、その後のシーンで何年か前に4歳の娘を亡くしていることがわかります。
音はアラビアンナイトのように夜ごと独創的なストーリーを語るのですが、なぜか自分の記憶には残りません。悠介が思い出して書き起こしたものを脚本化し、それを作品として世に送り出すことで今の地位を築いたようです。
ある日のこと、悠介はウラジオストクの演劇祭に参加するため愛車サーブで空港に向かうのですが、直前にフライトがキャンセルになり、そのままUターンして帰宅します。翌日のフライトまで家で過ごそうと思ったのでしょう。しかし部屋に入った途端、音の不倫現場を目撃してしまい、再び空港まで戻って近くのホテルに泊まることになります。
その晩の二人のスカイプは、ウラジオストクに到着しているフリをする悠介と、夕食は何だったかと屈託なく問う音。夫婦関係はそれなりに良好だと思っていた悠介は、音の真意を測りかね、何も見えていなかった自分に傷つきます。
悠介の帰国後も音はそれまでと変わりなく映画の仕事を続け、悠介は手がけている「ゴドーを待ちながら」の多言語劇に注力します。悠介の多言語劇というのは、多国籍の役者がそれぞれの言語で演じるというもの。日本語の語りかけに中国語で応じるといった対話が舞台上で繰り広げられます。これは登場人物の名前が多国籍/多言語を思わせる演目だからというのではなく、家福悠介ならではの演出スタイルのようです。
音の不倫を知っていることを明かせないまま、日常をやり過ごす悠介。そんなある朝、出がけに音から“帰ってきたら話したいことがある”と言われます。その言葉を少し気にしながら夜遅く戻ると音が床に倒れていて、救急搬送の甲斐なく、くも膜下出血であっけなく逝ってしまいます。
ここまでで全体の1/4ほどでしょうか。この時点で初めてオープニングクレジットが流れます。もしかすると悠介と音の話は本編ではなく前日譚だということかも知れませんが、いずれにしても娘と妻を喪った男である悠介が、不倫の謎を含む音の思い出と彼女が残した台詞のカセットテープを抱え、後の人生をどう歩んでいくかが本作の主眼です。
その2年後、広島で行われる演劇祭に招待された悠介が愛車を駆ってやってきます。しかし主催者から滞在中の運転が禁じられている旨を伝えられ、運転を代行するドライバーを紹介されます。それが23歳の渡利みさき。運転中に台詞の練習をするので他人を乗せられない、旧い車なので若い女性には運転が難しいだろうと抵抗しますが、演劇祭の規定だということで渋々受け入れることになります。
彼ならではの多言語劇を創り上げるため、まずは各国から応募してきた役者のオーディションです。英語や韓国語や中国語などさまざまな言葉が使われる他、韓国手話の使い手も参加しています。そんななか日本からの応募者に高槻耕史を発見します。音の脚本を演じた若手俳優であり、音の不倫相手だった男です。
この演劇祭で演じられるのが「ワーニャ伯父さん」で、悠介は、他の役で応募してきた高槻耕史をワーニャ伯父さん役に振り替えて採用します。ソーニャ役は手話で演じる韓国人の唖者です。稽古はひたすらテキストを読む込むことで、この方法論の問題やコミュニケーションの問題でギクシャクする部分も大切なポイントですが、それよりも「ワーニャ伯父さん」が演目であること、辛くても生きることを受け入れていくしかないというこの戯曲の締めくくりが重要です。つまり、映画の物語と劇中劇が重なり合って進んでいく作品なのです。
本作の原作は村上春樹の短編集「女のいない男たち」で、その何編かから部分的に抜き出して構成されています。不倫していた妻を喪った男が北海道出身の若い女性運転手を雇う話は「ドライブ・マイ・カー」、前世がヤツメウナギだという女が同級生の家に空き巣に入った思い出を語る話は「シェエラザード」、出張から帰ると妻が不倫中だったという話は「木野」からとっているようですが、たとえば空き巣の話は同級生の母親が感づいて鍵を交換して終わるなど、印象的なモチーフを使うだけで結末などは異なります。
そういう意味で、この短編集を原作にしたというより、村上春樹の作品全般に共通する喪失感や欠落感などをベースに、失われた人やものとどう折り合いを付けていくかという問いに監督の考えや思いを被せた映画という印象を受けました。重層的に創り上げられた作品です。
そもそも村上春樹の短編にも含みが多くて、関西弁でイエスタデイを歌う男の一編があることから考えれば「ドライブ・マイ・カー」という題はビートルズナンバーから獲られたもの(あなたを運転手にしてあげる、私は映画スターになるから、という歌詞ですね)でしょうし、だとすればマッカートニーが言うように"Drive My Car"が古いブルースで使われた性交の婉曲表現だと知った上で選んだ可能性も高いわけです。短編集のタイトルも著者が前書きで“ヘミングウェイの Men without Women は女抜きの男だけの世界だが、この短編集は女に去られた男の話だ”と述べているとおり下地があります。
そういった重層的なネタを、村上春樹的な禅問答のような会話、ファンタジー的な要素やコミュニケーション不全の問題を自然かつ効果的に使って仕上げた作品だと思います。きっとこの監督は村上春樹の良い読者なのでしょう。言い換えれば、村上春樹の世界観が好きな人には刺さる映画なのではないでしょうか。
個人的には、谷口吉生設計の清掃工場のシーンと、韓国手話を使う女性のエピソードが印象に残りました。どちらも本筋とは関係ないようで、後で反芻していると気付きがある部分です。それから映画とは関係ありませんが、高槻耕史が泊まっていたグランドプリンスは、都市型ホテルには珍しく温浴施設があり、宮島行きフェリーの港もあって意外に便利な宿です。以前、弥山登山の前泊で使いました。ちなみに家福悠介の宿泊先は“閑月庵 新豊”という一日一組限定の貸切宿だそうです。
公式サイト
ドライブ・マイ・カー(Drive My Car)
[仕入れ担当]